新津新生氏は「農業用水と観光開発-茅野市大河原堰を中心に-」(『信濃』55-5/信濃史学会2003)の中でこんなことを書いている。「関係者を嘆かせた理由の一つは「漏水も水利権」という問題である(註)。約二○キロメートルも離れた農地にたどり着くまでには、途中で相当の水量が漏水する。この漏水は途中の集落になとって、水田の水利権になっているというのである。漏水が多いことは、途中の集落にとって望ましいこと、したがって、漏水を止める工事は歓迎しないのである」と言う。文中の註についてこう付け加えている。「横セギの大河原セギと縦セギが交差する場合、必ず大河原セギ側の堤塘に穴があけられている。名目は、横セギが増水して溢れたとき、ここから排水して水害を防ぐというものだったが、逆に渇水時にここから地元が盗水するためのものであった」という清水馨さんの言葉を引用している。
不思議な話ではあるが、漏水することが望まれるという話は、水利権を持っている人たちにとっては問題外の話であり、そもそも権利のない人たちに盗水を使われるのは理解しがたいことかもしれない。しかし、水は土の上では必ず浸透し、浸透した水はどこかで湧出する。日本の水田は必ずしも河川から取水された水で耕作されているわけではない。山間の谷間で川も無いような場所でも水田の姿を見るわけであるが、こうしたところは山からの湧き水だけで耕作されている。同じように山間でなくとも段丘崖であれば湧き水によって耕作される水田もある。西天竜幹線水路が開かれたことで、段丘崖には多量の湧水が増えたという話は今までにも何度となく触れてきた。そんな湧き水の増加にともなってわさびの生産が増加したこともあったわけであるが、おそらくかつてに比較するとその湧出量は減少しているはず。そもそもかつてはあちこちに湧き水の姿を見たものだが、このごろはその姿をあまり見ない。なぜかといえば地球上が透水性の高いものから変わって低いものに覆われるようになったということがいえるだろうか。
戦後の開田時代を過ぎ、開田が認められなくなったころから農業用水路の改修目的は漏水を無くす目的が主となった。そもそも大河原堰のような漏水の権利は奪われていったわけである。土水路からコンクリート水路に変われば、漏水量は著しく減少する。かつて漏水を頼みにしていた人々は水を失うことになるわけであるが、漏水利権を求めたという話は聞いたことがない。水は循環するものであって、強いては水田で使われた水も浸透するにしても排水口から溢れたものも、いずれどこかの水田で再利用されていく。水田の必要水量は、必ず水田で使ってしまうというものではない。稲が消費する分もあるだろうし、蒸発する分もあるだろうが、この大量なとうとうと流れる水のほとんどは再び下流域のためになるのである。そう考えると、果たして水利権水量とはいかなるものなのかということが浮かぶ。頭首工で取水された水は水路を流れ、さらには分水されて数々の水路に配分されていく。それらは必要とされた受益エリアを越えてもただただ余ったかのように下流域に下っていく。受益エリアを過ぎたからといってすべて利用されて一滴もなくなってしまうというわけではないのだ。これを「矛盾」だと思う人もいるかもしれないが、土の上に放たれた水はそんな計算どおりにはいかないものなのだ。